ご本尊・寺宝

ご本尊

木造胎蔵大日如来たいぞうだいにちにょらい坐像
(江戸時代造、県指定文化財)

 当山のご本尊であり、本堂内の須弥壇中央に安置されています。その材木および作風から江戸時代の作と推定され、栃木県指定文化財に登録されています。

結い上げた髪の上から五智の宝冠を戴き、天衣を身に纏い、八葉蓮華の座上に結跏趺坐しておられます。かつて、その背には如来の特徴の一つである「光背」を具えていたものの、度重なる災禍により現在は失われてしまったと伝えられます。

 手に結ぶ印相は「法界定印」といいます。まるで坐禅を組み瞑想に耽っておられるかのようなこのお姿は、胎蔵漫荼羅(仏さまから衆生に向けられる大慈悲の活動を象徴)主尊としての大日如来さま(胎蔵大日尊)であることをを示す代表的特徴です。

ちなみに、日本に現存する大日如来像のほとんどは、手に「智拳印」と呼ばれる印を結んでおり、これは金剛界漫荼羅(仏さまの内なる悟りを象徴)主尊たる大日如来さま(金剛界大日尊)特有のものです。そのため、当山の大日さまは、全国的に数の少ない貴重な作例の一つといえます。


秘仏 木造開運犬切かいうんいぬきり不動明王ふどうみょうおう立像
(伝平安時代造)

 不動堂須弥壇の中央、極彩色の宮殿くうでん(お厨子)の中には、当山の並び本尊であり、六十年に一度御開帳の秘仏、犬切不動明王が安置されています。これは、崇真寺の通称である「開運犬切不動尊」の元となったお不動さまであり、当山で最も歴史のある尊像です。

このお不動さまは、遡ること平安の時代、大同二年(807)の二月、当山において弘法大師空海が不動明王を感得され、自ら敬刻したご霊像であると伝えられます(詳細はこちら)。

普段は宮殿の扉は閉じられ、直接そのお姿を拝することはできません。ですが、来たる令和十年(2028)、遂に六十年に一度の御開帳の年を迎えます。実に六十年越しのこの又とない機会に、是非ご自身で当山を訪れ、そのお姿を直接ご覧になられ、お不動さまとのご勝縁に与られてはいかがでしょうか。

寺宝

けんぽん著色  白衣びゃくえ観音像掛軸
(荒井寛方作、縦125㎝・横42㎝、県指定文化財)

「絹本著(着)色」とは「絹の上に色絵具で描いた(絵画)」という意味で、栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)出身の近代日本画家・荒井寛方(1878-1945)の作であり、県指定文化財に登録されています。

流れる滝を背に、金色の円光を纏い岩上に坐する白衣観音菩薩(三十三観音の一人)の姿が描かれています。

細い描線で描かれる尊像の柔和・清浄で光に満ちた印象と、南画のごとき盤岩の重く力強い質感のコントラストが特徴的です。

血色良く充実した柔らかなお身体に清浄の白衣を身に着け、滝の音に包まれながら安らかに瞑想に耽るそのお姿は、観音さまの遊ぶ禅定の世界を我々に想像させ、その境地へと引き込むかのようです。

菊御紋入 漆塗緋網代編ひあじろあみの大名籠

これは、当山第四十四世住職・真仙和上が時の仁和寺宮より賜り、移動の際に用いたと伝えられる大名籠です。

寺伝によれば、和上は品行方正・博学多才な人物であったようで、当時崇真寺は創立以来の隆盛を迎えたといいます。その折、時の京都の御室・仁和寺宮(門跡)に見出され、その院室(所有寺院)七十二ヶ寺のひとつであった「禅定院」を当山の永代兼帯とする令旨を賜りました。これにより、和上は「十万石の格式を許され」(大名と同等の待遇を受けることが認められ)、当山と京都の往復に関する諸費用はすべて官費で賄われたといいます。

またそれだけでなく、和上は当時の仁和寺門跡より、「菊御紋章織リ紫地ノ衲衣七条」・「紫色縮面紋織リノ夏冬用ノ法衣」・「緋色ノ乗籠」・「金色カナグノ法具僧具」(原文ママ)などといった、数多くの什物を賜りました。

この時に賜った「緋色ノ乗籠」というのが、まさしく当山に現存する「緋網代編の大名籠」です。和上はこの駕籠に乗り、弟子や人夫たちを伴い京都の諸寺院に参詣していたというのですから、その様子はさながら大名行列のごとく、大層立派であったことが想像されます。

さてその実物に目を向けますと、乗り籠として利用されてきたため、担ぎ手が籠を担ぐ際に持つながえは削れ、漆塗りが剥がれるなど老朽化の跡が見られます。しかしながらその佇まいは、今でも「十万石の格式」に恥じぬ堂々たる気品を放ち続けています。

特に注目すべきは、籠の装飾として施された「菊」、そして「五七桐」(真言宗智山派の源流にあたる、京都醍醐寺一門の象徴)の金紋です。これらは、崇真寺が古来、真言宗の門跡寺院(皇族・貴族とご縁の深い寺院のこと)である仁和寺や醍醐寺と深い関わりを持っていたことを象徴しています。

明治時代を迎えるや、当山も廃仏毀釈の風潮に伴う盗難や焼失といった憂き目を免れず、当時和上が仁和寺より賜った品々はことごとく失われてしまいました。ですが、幸いにもこの乗籠だけは難を逃れ、当時の崇真寺の栄華を今に伝えています。