1300年の願いとともに
崇真寺は、その昔、開基・妙尊上人により稲毛田の里に開かれて以降、およそ1300年にもわたる長い歴史を今に伝えるお寺です。
移ろいゆく時代のなかで、ときに栄え、ときに衰えながら、先人たちの篤い信仰心に支えられ、悠久の昔より人々の心に息づく《みほとけへの願い》の軌跡を今日に伝えています。
崇真寺の歴史 ―開基からこれまで―
古文書から紐解く崇真寺のあゆみ
崇真寺の歴史を伝える重要資料、『稲毛田山金剛王院相乗血脈聞書』の記述をもとに、現在にいたる当山の歴史のハイライトを、編年体形式でご紹介します。
| 年代 | 歴代住職 | できごと |
|---|---|---|
| 神亀5年(728) | 妙尊 (当山開基) |
当年の9月夜、空に流星が飛来、四散して日本各地に落下(『続日本紀』)。四片はそれぞれ宮中・濃尾の谷間・信州川中島、そして下野芳志戸(現芳賀町芳志戸)に落ちたという。 ある天文博士に占わせた所「これは天下泰平の兆しであるから、この四箇所にお堂を建立せよ」との進言あり。これに伴い、芳志戸にお堂を建立し、ここに当山(崇真寺)開基・妙尊上人を迎える。 |
| 応永元年(1394) | 範一 (附法元祖、第1世) | 永徳年中(1381-1384)、密教寺院としての「稲毛田山崇真寺金剛王院」草創。応永元年(1394)、範一上人が住持として入山し、当山に初めて密教の法流を伝える。 |
| 天正11年(1583) | 俊空 (第13世) | 当山第13世・俊空、京都醍醐寺の塔頭寺院である光台院の亮淳阿闍梨から附法(密教の極意を伝授すること)を受け、伝法にかかわる密教法具を下げ置かれる(現在は散佚)。 |
| 慶長年間 (1596-1615) | 尊全 (第21世) | 時の将軍・徳川家康公より、永代寺領として二十石の御黒印を拝領。 |
| 正保4年(1647)~ 明暦4年(1658) | 桃海 (第24世) | 正保4年(1647)、願主の請を承け、山内に五百羅漢・二十五菩薩を造立。慶安元年(1648-49)、将軍・徳川家綱公より、寺領の御黒印二十石あらため、御朱印地を拝領。また承応(1652-55)・明暦(1655-58)年間には、密殿の建立や洪鐘(大きなつり鐘)の鋳替を行なう。 |
| 延宝年間(1673-81) | 貫翁 (第26世) | 不動堂・客殿・その他境内すべての建築物の造作・修繕が行われる。 |
| 元禄年間 (1688-1704) | 旺俊 (第27世) 寛慶 (第28世) | 当山の歴史を伝える重要資料である『稲毛田山金剛王院相承血脈聞書』(第51世・善充(後述)撰)の元となった『烈名血脈』一軸が、第27世・旺俊により著される。 また第28世・寛慶の代、当山が常法談林(仏教を学問的に学ぶ道場)として大いに栄える。 |
| 享保4年(1719) | 行照 (第30世) | 当山にて庭儀付灌頂法会を執り行う。これに合わせ、山門を建立する(現在は焼失)。 |
| 享保22年(1737) | 秀全 (第31世) | 当年春、新たに地蔵菩薩像(太平洋戦争に伴う供出により現存せず)を鋳造し、『法華経』一千部の供養法会(法華会)を厳修。その翌年(1738)、『大般若経』六百巻を求め、以後、天下泰平・万民豊楽を願い法会(大般若会)が営まれる。 |
| 延享4年(1747) | 淳宥 (第33世) | 当山に仁王像を建立し、『仁王般若経』一千部の供養法会(仁王会)を厳修。 |
| 明和3年(1766) | 龍海 (第35世) | 先代住職(第34世・尊真)の遺志を継ぎ、当年、新築の不動堂一宇を建立(五間三尺四面=約10㎡、現在の不動堂)。これに合わせ、曼荼羅供・法華会を厳修。 |
| 寛政4年(1792) | 尊昌(祥) (第37世) | 施主の寄進により、不動堂正面に常夜燈を建立。 |
| 天保6年(1835) | 真恵 (第41世) | 弘法大師空海上人の一千年御遠忌に際し、漫荼羅供大法会を厳修し、不動堂の屋根の葺き替えを行う。 |
| 江戸時代末 (1850-60頃) | 真仙 (第44世) | 現存の大門(不動門)、および鐘楼堂(2011年3月11日の東日本大震災により倒壊)を建立。御室・仁和寺宮より、同宮付院室である「禅定院」の永代兼帯を仰せつかり、また十万石の格式を許される等、崇真寺創立以来の隆盛を迎える。 当山所有の寺宝である「菊御紋入り・緋網代編の大名籠」は、この当時仁和寺宮より賜ったもの。 |
| 明治時代初~中期 (1868-80頃) | 照芳(第45世)~ 秀雅(第46世) | 大規模な火災に見舞われ、山内の堂宇、および数多くの寺宝・記録等が焼失。 |
| 明治17年(1884) | 秀雅 (第46世) | 神仏分離令(1868)に伴う廃仏毀釈の影響により、80ヶ寺あまりの末寺を失う。 |
| 明治20年(1887) | 真興 (第47世) | 新たに本堂(間口八間半・奥行六間半。現在は焼失)等を建立。また、寺講である「法味講」の尽力により、現在の観音堂を那須郡から当山に移築。 |
| 明治24~28年 (1891-95) | 祐憲 (第48世) | 当山護持にかかわる様々な困難に見舞われ、末寺数ヶ寺の廃寺・什物の損失等も相まって、著しい衰退に直面。 |
| 明治35年(1902) | 秀慧 (第50世) | 未曾有の暴風雨に見舞われ、当山境内の建物、および末寺に至るまで、甚大な被害を受ける。この年の12月28日、当山再建の志を継ぎ、中興第51世・善充が代務住職に就任。 |
| 大正7年(1918) | 善充 (第51世) | 当山復興事業として、諸堂(本堂内部・不動堂の屋根・大門等)や庫裡などの大修復を行なう。 |
| 大正8年(1919) | 〃 | 3月5日、近隣火災の延焼に見舞われ、不動堂・観音堂・大門等を除く、山内の建造物のほとんどが全焼。 |
| 現在の仮本堂、および庫裡を再建。 | ||
